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軍隊と社会の関係は一般的に限定されたものとなりやすい。これは軍隊という組織がそもそも社会の内部で活動する組織ではないことや、軍隊そのものが平時の軍事活動の統率や防諜のために一つの閉鎖社会を形成していることなどによる。そのために軍隊と社会の関係が悪化すると軍隊への風当たりは強くなり、軍事費の縮小の機運が高まるなどの反応が起こる。このような場合には軍隊内部での綱紀粛正が重視される(一例として、自衛官の犯罪率は一貫して、日本の一般国民の一割程度を保っている)。これは上述の統率と言う観点からも必須である。また平時が続くと切迫した必要性の感覚が政治家や国民から失われるため、兵器開発や訓練、部隊維持のための費用が削減される傾向があり、場合によっては大規模な軍縮に繋がりうる。
日本に存在する、または存在した軍隊およびそれに準ずる組織。
戦後、日本政府は、日本には憲法上、軍隊は存在せず、その代わりとして防衛組織である自衛隊があり、軍隊と同様に陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊に分かれているとしている。 だが、日本国外のメディアなどでは自衛隊のことを正式名称のJapan Self-Defense ForcesではなくJapanese Armyと呼ばれる場合も多い。この場合の多くは陸上自衛隊を指している。同様に海上自衛隊がJapanese Navyと、航空自衛隊がJapanese Air Forceと呼ばれることもある。また防衛省が設置されている。自衛隊という独自の呼称と建前は議論を呼び続けており改称や改革論がたびたびなされる。候補としては自衛軍(英訳は自衛隊と同じ)・防衛軍(Defence Force)・国防軍(英訳は防衛軍と同じまたはNational Defence Force)・国連待機部隊(国連待機軍)など。
内乱と内戦は同義に用いることも多く、厳密な区別はない。しかし一般的には暴動の範囲内であるものを「内乱」と呼び、武力を用いる形態にまで発展したものは「内戦」と呼んで区別する場合もある。英語のcivil war(内戦)の語源はラテン語のbellum civile(ローマ市民同士の戦争)である。
ただし近代的な国際関係・国際秩序が形成された1648年のヴェストファーレン条約以前においては内戦と対外戦争との区別は明確ではない。 また、フランス革命、共産主義革命、ルーマニア革命のように内戦や内乱ではなく革命という表記を用いる場合も多い。
内戦と内乱の用語の使い分けは慣習的なもので、明確な区別があるわけではない。スペイン内戦は「スペイン内乱」とも呼ばれる。国際法上の位置づけとしても、南北戦争では両当事者に戦時国際法が適用されたが、ロシア内戦では国際法は無視された。国家の転覆を意図した者には内乱罪が適用されるが、内戦の規模が大きくなると、南北戦争の例のように政治的な理由から同罪の適用が避けられることもある。
植民地の独立戦争などは支配側は内戦と呼び、植民地側は独立戦争と呼ぶことが多く、アルジェリア戦争のようにアルジェリア側は独立戦争と呼び、フランス側は内戦と呼んだように主体によって内戦かどうか意見が分かれることも多い、このような場合には支配者側が交戦相手を国家とは見なさず、相手を戦時捕虜ではなく単なる犯罪者として扱い、捕虜の権利を認めない、犯罪者として刑事罰を課したり、死刑にしたりする事態が発生することも多い。 ルーマニア革命では軍隊と秘密警察という国家機関同士の戦いになり、秘密警察の構成員は全員が非合法組織の犯罪者とされ、死刑、懲役、公職追放などの処分を受けている。
内戦は、国内の
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を争うために起こるもの(戊辰戦争、イエメン内戦など)の他、民族的(ルワンダ内戦。南北戦争やボーア戦争も同側面がある)、宗教的(レバノン内戦、スーダン内戦)、イデオロギー的(ニカラグア内戦)な衝突などから生じるものがある。冷戦下では様々な国外勢力が間接・直接的に介入し、事態を悪化させるケースも多かった。一時、冷戦後は国際社会は介入に概ね消極的となったが、EUにとっては域内であり歴史的に重要な地域であるユーゴスラビア内戦や、地下資源(ダイアモンド)の利権をめぐって残虐行為が繰り広げられたシエラレオネ内戦のように冷戦後に悪化するケースも多く、ふたたび国外勢力が介入する場合も多い。民族的なものについては民族紛争も参照。独裁政権の国では民主化要求デモなどの武力を行使しない運動も内乱と規定され武力によって鎮圧されることがある。
近代的な国際関係・国際秩序が形成されたおもに17世紀後半以降の内戦のみをあげる。戦争一覧および独立戦争一覧も参照。
反乱(はんらん)とは、国家の支配者に対して被支配層が徒党を組み、組織的な暴力的、破壊的、示威的行動によって何らかの不満を表明し、その不満の原因解決を迫り、あるいは被支配層みずからの手で不満の原因を解決しようとする行為。日本語では乱(らん)という語のみでも同様の事柄を指す。英語ではRebellion、Insurgency、Uprisingなどの類義語となる。
また、国家的規模でなくとも、軍隊の構成員や船の乗組員などが共謀して公然と上官等の権威に対抗する場合も反乱という。この場合の反乱には英語ではMutinyの語が充てられる。
人類が「反乱」という行為を最初に起こしたのは地球上のどの地域で、それがいつなのかは歴史に正確に残っていないが、文明を築き、集団生活の中に「社会」を構成し始めた4大文明の時代から近代まで、人類は歴史に反乱の記録を刻んできた。
シュメール王朝を吸収して北部メソポタミア地方に興ったアッカド帝国第2の王、リムシュが生きた紀元前2300年代にはすでに、旧シュメール王朝派の都市国家ウルの王、カクを中心にした勢力がリムシュ王に対して反乱を起こし「シュメールと激しく戦った。8742人の兵士を殺し都市を破壊し、城壁を崩した」と記録が残されている。
この反乱の原因が、旧シュメール
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によるクーデター的なものだったのか、帝国による旧シュメール王朝派への何らかの迫害の結果なのかは判明していないが、より詳しく歴史をつづるようになったその後の人類による反乱の記録を見てゆくと、反乱が発生した国家の支配層には、常にパブリックな部分に何らかの問題があることが読みとれる。
問題とは時に被支配層へのある種の弾圧であったり、貧困が原因の食糧不足であったり、非政治的で、比較的原始的なものである。こうした一時的あるいは慢性的な問題を、被支配層が選挙やデモ、請願などの平和的主張によって訴えることができ、支配者がその訴えを受け止める国家ならば、反乱は発生しづらい。あるいは、支配者が有能であり、被支配層の生活を考慮して善政を行う場合も、反乱が起きる可能性は低いと言える。
逆に、被支配層から支配者への訴えを権利として認めない国家、訴えを弾圧する国家、あるいは平和的手段によって訴える事はできるが、支配者が常にそれを黙殺するような状態の国家、深刻すぎて平和的に訴える次元を過ぎたような問題のある国家では、反乱の可能性は高まる。
現代における例を挙げるなら、中華人民共和国は、共産党の政治腐敗による搾取、農村地帯と都市のあまりもの貧富の差などが原因で、小規模な農民反乱が各地で起こっている。1989年の第二次天安門事件で、学生による非暴力的デモ行為を反乱として軍事力を用いて鎮圧したことは記憶に新しい。前述の「反乱が起こる可能性の高いの国家」に該当すると言えるだろう。
言い換えれば反乱とは、被支配層による、支配者への究極の意思表示方法であると考えられるが、支配者側から見れば重犯罪であり、鎮圧されれば生命の保証はなく、後がない状態であることを承知の上で被支配層が反乱を起こすと言う事態は、それだけで支配者と被支配層の完全な没交渉状態を表しており、その国家運営が部分的に破綻していることの現れだと言うことができる。
歴史的に、選挙・請願・デモなどの平和的主張が被支配層の「権利」として認められるのは、民主政が定着し始めた19世紀から20世紀を待たねばならず、それ以前の帝政・王政が主流の世界では、被支配層には支配者を批判したり、不満を表明する手段がなく、またその権利を自覚していなかったため、幸運が有能な支配者をもたらさない限り、被支配層は支配者に対する不満を蓄積し続け、結果として反乱を起こす可能性が非常に高い時代だったと言えるだろう。
「反乱」と類義・近似の言葉は、
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にも英語にも数多くあるので「反乱とは何か」を考えるとき、その境界を見つけるのが多少難しい。(ちなみに英語では、反乱を大きくRebellionとし、民衆が非武装ならNonviolent resistance、武装していればUprisingと呼ぶ)
一例をあげれば、明智光秀は何かしらの不満があって織田信長を誅したのだから「
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の変」は「明智光秀の反乱」とでも言えそうだが、彼は飢えた農民たちを率いた無名の男ではなく、織田信長の腹心であり、本能寺の変は最初から最後まで、支配層の内側で起こった政治的な背景を持った事件である。日本語は従者が主人に反逆することを「謀反」と呼ぶが「本能寺の変」は、明智が政権を奪ったクーデターであり、そこから豊臣と明智の短期間の内乱に発展したと言えるだろう。
そこで反乱とは「下層」の被支配層が「上層の」支配者に対して起こす「非政治的な階級間闘争」であると考えれば「反乱」の構図が明確になる。起こす側と起こされる側の階級差が大きく、理由が非政治的であれば反乱であり、階級差が少なく、理由が政治的であればクーデターまたは内乱ということである。剣闘奴隷という最下層の人々が巨大なローマ帝国に挑んだスパルタクスの反乱(下記リンク参照)は、完全に反乱の概念を満たす事件であるし、日本の農民一揆も同様である。
だが、階級差は大きいが、理由が政治的なものもある。それは「革命」である。「ロシア革命」はニコライ2世皇帝一家とツァーリズムという国家体制の打倒と、その後の共産主義国家の樹立を目指しており、完全に政治的な背景を持つ事件である。
コミュニストたちはこの運動に成功したゆえに「革命」と呼ばれているのだが、これが途中で鎮圧され、首謀者であるレーニンたちが処刑されていたら、最終目標だったニコライから見たそのままに、後世では「コミュニストの反乱」などと呼ばれたかもしれない。
後世から見れば反乱を起こした人々が持つ大義は十分理解できるものだが、反乱を鎮圧した当時の支配者は、反乱を起こした人々を、支配者の地位を脅かした大罪人としてひとくくりで処罰し、彼らには汚名と「反乱」というやや悪性のイメージしか残されない。