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大量粛清でNKVDの組織を固めたエジョフは、共産党幹部たちを徹底的に調査させ、政治的逮捕の組織化を行うとともに、地域ごとの逮捕人数の割当まで指示している。エジョフ就任直後の1936年秋ごろから逮捕の範囲が一気に拡大している。また粛清の理由として「右翼」「トロツキスト」「ジノヴィエフセンター」「日独ファシストの手先」などかねてからのレッテル貼りに加えて「産業破壊活動」を理由にするようにもなった。ソ連の経済的混乱・貧困などスターリンの失政を「反ソ分子の陰謀」のせいにして覆い隠すためであった。 大粛清の国際的な正当化を図るため、外国ジャーナリスト招いた「公開裁判」を行うことも忘れなかった。ゲオルギ・ピャタコフ(重工業人民委員第一代理)、カール・ラデック(元コミンテルン執行委員)、グリゴリー・ソコリニコフ(元財務人民委員/駐英全権代表)、ニコライ・ムラロフ(ゴスプラン幹部会員)ら大物被告は、1937年1月の第2次モスクワ裁判にかけて、「併行本部陰謀事件」の首謀者として死刑判決を与えた上で銃殺刑に処した(ラデック、ソコリニコフは懲役10年。ただし両者とも翌1938年獄中で不審な死を遂げている)。さらに1937年2月の中央委員会総会中には、ブハーリン(元コミンテルン議長・元党政治局員)、ルイコフ(前首相・元党政治局員)、ヤゴーダ(前任の内務人民委員)らを「右翼トロツキスト陰謀事件」を企んだとして逮捕し、翌1938年の第3次モスクワ裁判において死刑にした。 粛清は、単に反スターリン的な人物だけに留まらず、スターリンに忠実だった者たちへも及び、パーヴェル・ポストィシェフ、スタニスラフ・コシオール、ヤン・ルズタークのような1920年代にスターリンの粛清や集団化を支持した共産党幹部たちも次々と粛清されていった。 また1937年春ごろからは地方党組織にも粛清を開始した。まずエジョフは各地域のNKVDトップの首を挿げ替えて、実質的な指揮権を現地の党組織からモスクワのNKVD本部へと変えた。そしてロシア革命以来、領主のようにふるまっている地方党組織の大物たち、イオシフ・バレイキス、ボリス・シェボルダエフなどを続々と粛清していった。 第十七回共産党大会において、中央委員または中央委員候補だった者139人のうち98人がこの時期にNKVDによって逮捕・銃殺されるに至った。 第一次モスクワ裁判では、ムラチュコフスキー将軍(ウラル軍管区司令官)やスミルノフ将軍(シベリア方面赤軍司令官)など赤軍高官も処刑されていたが、彼等は赤軍としてというより、スターリンに並ぶ古参ボリシェヴェキとしての側面を恐れられて粛清されたとみられる。 赤軍自体への粛清は、おせち はスターリンといえどもなかなかできずにいた。だが、1936年7月にNKVDに逮捕されたドミトリー・シュミット将軍(キエフ軍管区戦車隊司令官)が、拷問のすえ廃人にされて赤軍内の“共犯者”の名前を“自白”したことで、徐々に赤軍高級将校への粛清がはじまった。さらに1937年6月11日にはミハイル・トゥハチェフスキー元帥(国防人民委員代理)、イオナ・ヤキール一等軍司令官(キエフ軍管区司令官)、イエロニム・ウボレヴィッチ一等軍司令官(白ロシア軍管区司令官)ら名だたる赤軍高官がまとめて“ナチスドイツのスパイ”として銃殺され、これを機に赤軍の粛清がいよいよ本格化する。 以降、翌1938年まで所謂「赤軍大粛清」が吹き荒れることとなり、元帥5人のうち3名、軍司令官(大将)15人のうち13人、軍団長(中将)85人のうち62人、師団長(少将)195人中110人、旅団長(准将)406人中220人、大佐階級も四分の三が殺され、高級将校の65%が粛清された計算になる。政治委員(共産党から赤軍監視のために派遣されている党員たち)も最低2万人以上が殺害され、また赤軍軍人で共産党員だった者は30万人いたが、そのうち半数の15万人が1938年代に命を落とした。 トゥハチェフスキー元帥「赤軍の至宝」「赤いナポレオン」と謳われる内乱時代の英雄で、その後も赤軍の機械化・近代化とその運用のための縦深作戦理論の確立に指導的役割を果たしていたトゥハチェフスキー元帥の処刑は世界に衝撃を与えた。 トゥハチェフスキーとスターリンのそもそもの確執は、対ポーランド戦争に遡るといわれる。この戦争でトゥハチェフスキー軍はワルシャワを包囲したが、スターリンが政治委員をつとめるエゴロフ軍はワルシャワ包囲の増援を送らなかったため、陥落させられなかった。当時のスターリンは、トゥハチェフスキーの華々しい連勝に嫉妬し、自分も戦勝将軍としてどこかの都市に華々しく入城したいと考えていたとの説がある。だが、レーニンはこれに激怒し、ただちにスターリンの革命軍事会議議員の地位を剥奪した。これによって大恥をかかされたスターリンは、トゥハチェフスキーを逆恨みするようになったという。これが真実であれば、トゥハチェフスキーの存在感はスターリンの塗装工事 を傷つけるものであったろうことは想像に難くない。 また一説によると実際に1937年の春から夏ころにかけてトハチェフスキーを国家元首にかついでスターリンを追放しようという陰謀が正統派コミュニスト・党官僚・軍人らの間であったという説もある(クルボーク事件)。 ナチス・ドイツ情報部SD司令官ラインハルト・ハイドリヒも、独ソ戦があった場合に最大の強敵になるであろう名将トゥハチェフスキーを始末する絶好の好機を逃さなかった。「ドイツ軍とトゥハチェフスキーが接触した」という偽造文書を作成し、チェコスロヴァキアの親ソ政治家ベネシュ大統領を通じてモスクワのスターリンへ届くよう工作したとされる。一方で、スターリン側がドイツがそういう行動に出るよう仕向けたともいわれ、真相は定かではない。 いずれにせよ、「ナチスのスパイ」として逮捕されたトゥハチェフスキーは、NKVDの取調官から調書に血の跡が残るほど激しい拷問を受けて、スパイである事を自白せざるをえなかった。裁判ではナチスの偽造した文書が証拠として利用され、予備校 の判決を受けたトゥハチェフスキーは1937年6月12日に銃殺された。 当時のソ連の外国人といえば、コミンテルンに参加するためにソ連に来ている共産主義か、または共産主義が禁止されている国からソ連に亡命してくる非合法組織の者か、そのどちらかがほとんどであったが、彼らもスターリンの大粛清の前で例外とはされなかった。 外国人死亡者で有名な人物としてはハンガリーの共産主義運動の始祖でレーニンの信頼も厚かったクン・ベーラ(1937年5月逮捕、1939年11月銃殺)、ソヴィエト著作家協会リトアニア支部の創設者で、1920年秋のカヒョフカ戦で活躍したリトアニア人共産主義者ロベルト・エイデマン(1937年6月銃殺)、スイス共産党創設者で、二月革命後のレーニンのロシアへの帰国を取り仕切ったフリッツ・プラッテン(逮捕後、1942年4月ラーゲリで銃殺)等が挙げられる。 大粛清の矛先は、コミンテルンに加盟している各国の共産党に対しても向けられ、ポーランド、ユーゴスラヴィア、モンゴル等の共産党幹部がソ連に召喚され、多くが粛清された。アドルフ・ヒトラーによる弾圧を逃れてソ連に亡命していたドイツ共産党指導部も、大粛清によって壊滅した[1]。日本人からは、山本懸蔵(日本共産党員。1937年11月逮捕、1939年3月銃殺)、伊藤政之助(日本共産党員。1936年11月逮捕、1937年銃殺)、国崎定洞(在独日本人左翼の医師。1937年8月逮捕、同年12月銃殺)、杉本良吉(演出家、日本共産党員、女優岡田嘉子の愛人。1938年1月逮捕、1939年銃殺)などソ連亡命中の共産主義者を中心に10〜20名前後が粛清されたと見られる。 ヴィーンヌィツャ大虐殺で遺体から親族を探す遺族スターリンとエジョフの粛清は広範に拡大され、おそらく人類の歴史の中でも名だたる政治抑圧の事例となった。その対象は政府や党の高級幹部に留まらず、作家マクシム・ゴーリキー、詩人オシップ・マンデリシュターム、演出家で俳優のフセヴォロド・メイエルホリド、生物学者ニコライ・ヴァヴィロフ、経済学者ニコライ・コンドラチエフなど一般の文化人や市民にも広まり、社会は相互監視と密告に支配された。 しかし1938年後半にはいると、大量抑圧によって国家機能や経済運営が支障を来たすほどになり、弾圧の実行者である治安機関がその責任を問われることとなった。1938年末になると、スターリンはエジョフとNKVDを批判するようになり、エジョフはついにNKVD長官の座をラヴレンチー・ベリヤに奪われ、さらにスターリン暗殺計画を企んだとして1940年に銃殺された。またフリノフスキーはじめエジョフの部下たちも次々と処刑され、粛清にあたったNKVDの関係者たちでスターリン時代を生き残れた者は多くなかった。