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その後、独ソ戦期・冷戦期にもベリヤの指導で政治弾圧は続いたものの、大粛清期に比べるとはるかに縮小した。1953年3月5日にスターリンが死ぬと、ソ連共産党第一書記になったニキータ・フルシチョフが、大粛清をはじめとするスターリンの個人崇拝政治を批判し(スターリン批判)、これにあわせて、大粛清で処刑・流刑された共産党や赤軍の幹部たちに対する恩赦や名誉回復がはじまった。
1964年のフルシチョフの失脚後、レオニード・ブレジネフの政権下では一時名誉回復運動も停滞したが、1985年にはミハイル・ゴルバチョフによって再び「改革派」が勢いづき、スターリン政治の実態が明らかにされる一方で、更に多くの死亡者たちの名誉が回復された。
大粛清の死亡者数には諸説があるが、1930年代に反革命罪で死刑判決を受けたものは約72万人とされる。一説にエジョフ体制下の1937年〜1938年にかけて100万人が処刑され、数百万人が強制収容所における過酷な労働で死亡したとされる。他にも農業集団化に伴う「富農」追放や、飢饉によって死亡した人数は、推計によって最大約700万人に達する可能性がある。
ただし過酷な取調べ・尋問の過程で死亡した者や、有罪判決を受けて劣悪な環境下で服役中に死亡した者の人数については正確な統計が残されていないため、その人数を合わせれば死亡者数は増大するはずである。
赤軍出身の歴史家ドミトリー・ヴォルコゴーノフ(Dmitri Volkogonov)は著書「レーニンの秘密」の中で、
拘束を解かれた暴力は、巡りめぐって革命の創設者自身を襲った
と批評している。つまり、既存の政治体制・法体系を否定して発足したボリシェヴィキ政権が設置したチェーカー以降の秘密警察は、国民の監視、逮捕、拷問、処刑などを行う特権を与えられた。レーニン時代には、秘密警察の矛先は国民のみだったが、スターリンが政権を掌握すると弾圧の対象が共産党員、そして政権の中枢へと拡大された、ということである。つまりヴォルコゴーノフによれば、大粛清はボリシェヴィキ政権の一つの帰結点だった、ということになる。
一方で、「こうした弾圧措置は道義的また倫理的には問題があったとはいえ、そのおかげでロシア・ソ連の近代化が成功した」として、この時期のスターリンの行動を肯定・正当化しようとする論者も存在している。その根拠は、スターリンの時代を矛盾の時代だと定義することから出発している。すなわち、ソビエト成立時の産業構造は農業主体であったが、本来であれば数十年をかけて工業化を進めるところを、農民を犠牲にした強制的な資本蓄積を図ることで産業構造の近代化を成功させた、というのである。また、大粛清によって排除された高級将校は現代戦の知識に疎く、大粛清の後にはゲオルギー・ジューコフやイワン・コーネフのようにそれを補う有能な若手将校が現れたと主張されることもある。しかし、一般には、赤軍が熟練将校や指揮官の大半を失ったことが冬戦争と独ソ戦での甚大な損害を招いたとされている。トゥハチェフスキーのような先進的戦略家らも犠牲になる一方で、冬戦争や独ソ戦争における失態から無能との悪評高いクリメント・ヴォロシーロフや騎兵を過大評価し戦車を軽視するセミョーン・ブジョーンヌイらは粛清を免れたことから、現代戦の知識よりも党への忠誠が重視された大粛清であった。
パレスチナ(アラビア語:??????、Filast?n、ヘブライ語:???????、Palestina)は、地中海東岸の歴史的シリア南部にある地域。西アジア・中東に位置する。
歴史的には、現代の国家でおおよそイスラエルとパレスチナ自治区、ヨルダンのうち東部の砂漠地域以外、レバノンとシリアの一部を指す。特に、旧イギリス領パレスチナにあたる、現在のイスラエル、パレスチナ自治区、ヨルダンを指すこともある。
第二次世界大戦後は、より狭く、ヨルダン川より西の、現在のイスラエルとパレスチナ自治区を指すことが多い。パレスチナ人とはこれらの地域の人々だが、後述するようにパレスチナ人と呼ばれるには地理的な条件以外も必要である。
最も狭義には、
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にあたる地域、もしくは政体としてのパレスチナ暫定自治政府を指す。これは地理的には一つながりではなく、ヨルダン川西岸とガザ地区に分かれている。
中世以降の主要な住民はアラビア語を日常語とするムスリム(イスラム教徒)、キリスト教徒、ユダヤ教徒(ミズラヒム)である。前2者とごくわずかのミズラヒムが、近代以降世界各地から入植してきたユダヤ人に対して、アラブ人とされパレスチナ人と呼ばれる。
古称は「フル」、「カナン」という。パレスチナの語源はペリシテ人の土地という意味で、紀元前13世紀頃にペリシテ人が住みついたことに由来する。紀元前10世紀にイスラエル王国が建設され、地域の中心都市としてエルサレムが建設された。イスラエル王国の人々が育んだ民族宗教ユダヤ教の聖典旧約聖書ではパレスチナの地は神がイスラエルの民に与えた約束の地であると説かれ、このためヘブライ語では「イスラエルの地 (Eretz Israel)」とも呼ばれるようになる。
イスラエル王国崩壊後には周辺諸国の支配を受け、のちにユダヤ教の中からキリスト教が興ると、その聖地と定められた。さらに、ユダヤ教・キリスト教の影響を受けてアラビア半島に興ったイスラム教もエルサレムを聖地としたため、諸宗教の聖地としてエルサレムを擁するパレスチナは宗教的に特別な争奪の場となった。
7世紀にはイスラム帝国の支配下に入り、
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を支配する勢力とエジプトを支配する勢力の間で帰属がしばしば変わった。11世紀にはヨーロッパから十字軍が到来し、エルサレム王国が建国されるが、12世紀末にはアイユーブ朝のサラーフッディーンに奪還され、パレスチナの大半はエジプトを支配する王朝の支配下に入った。16世紀になると、エジプトのマムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国がパレスチナの新しい支配者となる。
19世紀以降、ヨーロッパで次々に国民国家が成立し、各地で民族の自己認識が促されると、ヨーロッパにおいてマイノリティーとして排除されてきたユダヤ人が新天地を求めてオスマン帝国領のパレスチナに入植し始めた。彼ら入植ユダヤ人は1948年にイスラエルの建国を勝ち取るが、このために多くのパレスチナ人が難民化してパレスチナ問題が発生。中東の火薬庫となる。
イスラエル政府とパレスチナ勢力のパレスチナ解放機構は長い闘争の末、1993年になってオスロ合意を結び、1994年からパレスチナの一部でパレスチナ解放機構が主導する暫定自治が開始された。しかし、オスロ合意で定められたパレスチナ問題の包括的解決に向けた話し合いは頓挫し、さらにイスラエルとの和平に合意しない非パレスチナ解放機構系の組織によるテロや軍事行動が続いた。2000年以降、再びイスラエルとパレスチナの闘争が再燃し、和平交渉が事実上の停止状態にある。
一方、パレスチナ側は、停戦に応じても、イスラエルが一方的に攻撃を続けていると指摘。実情は、「停戦とはパレスチナ側だけに課せられたもの」となっていると主張している(「停戦」中のはずのパレスチナの一週間)。たとえば、2001年、イスラエルのシャロン首相は
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との交渉停止を通告し、アラファートPLO議長を軟禁。再開に「7日間の平穏」とさらに「6週間の冷却期間」を要求した。しかし、平穏が達成されたかどうかは、イスラエル側が判断するとした。パレスチナ側の停戦は37日間続いたが、シャロン首相は「始まってもいない」として、この間一方的にパレスチナへの攻撃を続けた。ハマースが反撃したため、なし崩し的に停戦は消えてしまった。
アラファートの死後、アッバースが後継者となった。2005年2月8日、2000年10月以来4年4ヶ月ぶりにシャロン首相は首脳会談に応じた。両者の暴力停止(停戦)が合意されたが、交渉再開は停戦継続を条件としている。現在でも双方の攻撃が完全に収まったわけではなく、困難が予想される。
パレスチナ自治区は、パレスチナ地域のうちヨルダンに接するヨルダン川西岸地区とエジプトに接するガザ地区からなるパレスチナ人の自治地区である。その行政は、パレスチナ解放機構が母体となって設立されたパレスチナ自治政府が行う。ただし、パレスチナの最終的な地位は将来イスラエルとパレスチナ解放機構との間で結ばれる包括的和平によって定められることになっており、目下の正式な地位は暫定自治区・暫定自治政府となっている。
パレスチナ自治区の人口は約330万人で、西岸地区が3分の2、ガザ地区が3分の1を占めるとされる。これは、900万人強いるとされるパレスチナ人の全人口の3分の1にあたる。
自治政府は1995年の暫定自治拡大合意に基づき、1996年に行われた立法評議会選挙によって正式に発足した。
エルサレム国連統括地パレスチナ自治区は、イスラエル建国直前の1947年に行われた国連決議181号(パレスチナ分割決議)が定めた、パレスチナをユダヤ人、アラブ人、国連統括地の3つに分割する決定を基礎としている。この決議は、これに反対する周辺のヨルダンと
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が第一次中東戦争でヨルダン川西岸地区とガザ地区を占領したためにパレスチナのアラブ人には寸土の領域も残されず、ユダヤ人によるイスラエル国家しか建設されなかった。
現在のパレスチナ自治区(薄灰)その後、西岸地区とガザ地区はイスラエルによって占領されるが、1964年にエジプトのナーセル大統領の後押しによって西岸地区とガザ地区のアラブ系住民とパレスチナ難民の統合抵抗組織としてパレスチナ解放機構が設立され、事実上のパレスチナ亡命政府となった。
当初、パレスチナ解放機構はイスラエル国家を打倒し、全パレスチナにムスリム・キリスト教徒・ユダヤ教徒の全てが共存する非宗派的な民主国家を樹立することを目標としていた。しかし、1980年代後半に繰り広げられたイスラエルに対する大規模な抵抗運動(インティファーダ)の中で現実主義路線に転じ、ヨルダンに西岸地区の放棄を宣言させて、西岸地区とガザ地区を中心にパレスチナ人の独立国家を樹立してイスラエルと平和共存する道を模索するようになった。