アクト・テクニカルサポート

現在、ガザ地区をハマースが実効支配し、ヨルダン川西岸のみファイヤド政権の支配下にある。もちろん、イスラエルの入植者に占拠されている地域は、いずれの支配も及んでいない。7月2日、イスラエルが差し押さえていた税収の一部引き渡しを受け、ファイヤド政権は17ヶ月ぶりにハマース党員を除く公務員給与の満額支払いを発表。ガザ地区では、ファイヤド政権に従うことを条件に給与を支払うと発表した。 従来、欧米諸国は、経済制裁解除の条件として、早期の総選挙を要求して来た(「Various Arab and European countries urge P.A to go for early elections」、英語)。経済制裁による財政難は引き続き続いており、総選挙になれば自国に都合の悪い存在であるハマースの勝利はあり得ない(裏返せば、ハマースを敗北させなければ制裁を止めないと、パレスチナの有権者を脅したと言える)との読みといわれている。結果として、総選挙を経ることなくハマースの排除が実現した形となった。しかし、経済制裁を武器に、選挙により成立した政権を否定する行為に対し、民主主義の否定とする強い批判がある。 パレスチナ囚人保護団体のナファ協会によると、イスラエルは拉致したハマースなどの評議員に対し、釈放の条件として議員辞職するよう脅した。評議員らのほとんどは、「(辞職するくらいなら)喜んでイスラエルの拘置所に留まることを選ぶ」と声明を出した(「Israeli interrogators demand detained MP's to resign from their posts」、英語)。 また、日本は2007年6月12日に、いったんはODA再開の意向を麻生太郎外務大臣がパレスチナ側に伝えたが、挙国一致内閣の崩壊で、再び棚上げになった。 2007年5月20日より、レバノンのナハル・アルバリド・パレスチナ難民キャンプでイスラム教スンニ派武装組織武装組織「ファタハ・イスラム」とレバノン政府軍の武力衝突が起きた。ファタハ・イスラムはファタハとは無関係で、パレスチナ人の組織でもないが、パレスチナ人支援を名目に、合法的にレバノン入国を果たしたといわれる。レバノン政府側は、ファタハ・イスラムが軍組織を攻撃しようとしたことを攻撃の理由に挙げている。ファタハ・イスラム側は「いわれのない攻撃」と反論している。レバノンの国会は、全会一致で難民キャンプへの攻撃を承認した。 アルジャジーラによると、5月23日現在で武装メンバー20人、政府軍兵士32人、民間人27人が殺されたとしている。また、『毎日新聞』によると、5月27日現在で、キャンプにいた難民約4万のうち3分の2は避難したが、銃撃戦の巻き添えや不用品回収 によるパレスチナ人狩りの噂などが立ち、避難に踏み切れない者もいるという。 選挙は中選挙区比例代表並立制。選挙区、比例区共に66議席ずつ。重複立候補制度はない。日本の参議院に近いが、選挙区は完全連記制。また、選挙区は少数派のキリスト教徒枠として6議席があらかじめ割り当てられている。18歳以上の普通選挙。 1996年1月20日に初めて行われ、ファタハが第一党となった。しかし、多くの党派は選挙をボイコットした。 2006年1月15日、二度目の総選挙が行われた。アメリカはハマース躍進を恐れ、ファタハに肩入れする選挙干渉を行ったとも言われた。また、事前にハマースの立候補予定者など300人が、イスラエルに逮捕された。 ファタハは45議席と惨敗し、ハマースは74議席と過半数を獲得する地滑り的勝利を収めた。ファタハの腐敗や、イスラエルによる白色テロを阻止できないことへの不満があり、一方でハマースが社会福祉に力を入れたことなどが勝因と言われる。とはいえ、比例区では28議席ずつと互角で、ファタハは選挙区での候補者乱立による共倒れが多かったとも指摘されている。 バスク国の領域には、後期旧石器時代から粗大ごみ が住み続けてきた。ローマ帝国期にはいくつかの部族に分割されたが、民族的な大きな領域を構成していた。少なくとも、アキテーヌと険しい中央ピレネー山脈からアンドラまでの地域を含んでいた。 ローマ人の登場により、いくつかの道路や研究の進んでいない小さな町、使い回された田舎の入植地が残されている。パンプローナは有名なローマの将軍ポンペイウスによって築かれ、セルトリウスに対抗するための遠征の司令部として使われた。 3世紀には、封建制が進行する中で、山脈の両側のバスク地域はバガウダエにからんだ動きとともに反乱を起こし、事実上の独立を達成したと見られる。この独立は西ゴートの攻撃に耐え、ガスコーニュ公国の設立につながった。この公国はフランク王国の属国、あるいはアキテーヌ公国との連合国であった。 ガスコーニュ公国は、ムスリムの侵入者やアキテーヌのウード公、フランクのカール・マルテルの間の抗争による困難に耐えることができなかった。こうした困難の結果、カール・マルテルが公国を所有した。 南方ではパンプローナ王国(のちのナバラ王国)が、少なくとも805年から1200年まで、ピレネーの両側においてバスク国の唯一の政治的な実体となった(スベロアは自治を保ったが、バイオナとラプルディ沿岸部はイングランドの手に落ちた)。王国はサンチョ3世(985年 - 1035年)のときに最大領域に達した。サンチョの王国はナバラ、バスク国のほとんど、ラ・リオハ、カスティーリャの北東に加えて、カスティーリャ王国とアラゴン王国(どちらも当時は地方の小国であった)に及んだ。サンチョは「大王」と呼ばれ、レオンやバスコニア(ガスコーニュの語源)の脆弱な地域も保護国にしようとした。 サンチョが死ぬと、その王国は4人の整体師 に分割された。パンプローナ、カスティーリャ、アラゴン、ソブラルベとリバゴルサである。分割されてすぐに、兄弟間の戦争が始まった。「ナバラ」という名前が付けられたのは、パンプローナとアラゴンが連合した間である。 1134年、ガルシア・ラミレスがナバラ王位に就くと、カスティーリャとの戦争が始まった。ラ・リオハを明け渡すことで和平が結ばれたが、西部の3県はナバラ王国の手にとどまった。しかしカスティーリャは新たな侵攻を始め、3県はカスティーリャに帰属した。ただし、トレビニョを除いて3県には自治権(フエロ)が認められた。 1512年、フェルナンド2世の部隊が南バスクを占領した。ピレネー北のバス・ナヴァールは独立を保ったが、1620年にフランスに編入された。バス・ナヴァールは1589年にアンリ4世がフランス王について以来、フランスと連合していた。 ナバラと北バスクの県は特殊な形式の自治を保ち続けた。フランス革命による中央集権化が進むと、フランス側の県は局地的な抵抗を見せたが、自治を失った。ギプスコアの自治政府は一体化のためにフランス共和国への編入を望んだが拒否された。 ナポレオンによるスペイン侵攻の間、バスクの県は当初抵抗を見せずにフランス軍に占領された。しかし、占領軍の虐待により、バスク人もまた武器を取ることになった。 19世紀に、この地域に自由主義的な試みが行われ、一個の国民国家としての中央集権化と均一化が行われた。この結果、バスクはカルリスタ戦争で反動的なカルリスタ党に接近したが、バスク政府がもはやこの戦争には望みがないことを察して戦争が終わった。この間に、バスク地方は自治権を失ったが、徴税権のような最小限の権利は残され、これが最近の部分的回復に役立った。 この影響で、関税境界がバスク国とスペイン側の国境から、バスク国の中央を走っているフランス国境へ移動した。このために、伝統的なパンプローナ−バイヨンヌ街道は分断され、内陸地方を潤していた旨みのある密輸商売は消滅した。逆に、沿岸地域はまだ恵まれていた。 カルリスタ戦争の結果、および19世紀後半にヨーロッパを覆っていた民族主義の思想に率いられて、バスク人はバスクをより近代的な組織に変える闘争を再構築しなければならないと感じた。そうした人たちの中で、サビノ・アラナとその弟ルイスが、19世紀後半に近代的なバスク民族主義を打ち立てた。 このイデオロギーは、特に当時のビルボや国内のその他の産業で繁栄していたブルジョア階級に豊かな支持層を作った。最初は、イギリス資本の製鉄業のような成長産業の労働者として流入する大量のスペイン人、ガリーシア人移民に反対するといった、宗教的・人種差別的な基調をいくらか持っていた。造船業、冶金業、小型兵器製造業といったもの全てが、ビルボや多くのギプスコアの都市を、栄える経済的中心に押し上げた。影響力のあるバスクのブルジョア階層はこうして生まれたのだった。 アラナが興し、基本的にバスク民族主義者党 (EAJ-PNV) が支持しているバスク民族主義は、民主主義的手段をもって、かつて自治を認めた自己統治とほぼ同じか、それを越える自己統治を目指した。バスク民族主義は、別の保守党 (EAE-ANV) が存在した共和制スペインのもとでは大いに活動した。しかし、1937年のファシストへの抵抗の最後の月になるまで、それは達成されなかった。