あいけあ介護求人紹介センター
2004年、クルド人の難民申請者の親子アフメット・カザンキランとラマザン・カザンキランが入国したが、不法入国としてトルコに強制送還された。彼らは国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が難民認定した難民であるが、日本側は日本の東京高等裁判所が「迫害はなかった」とする判決を出したことと、イギリスが2人の難民申請を却下したことを根拠として、難民として認定しなかった。2006年1月、彼らの家族はニュージーランドに難民申請を行って認められ同国に移住したが、息子のラマザンは兵役のためトルコに残った。2007年3月13日、出国可能となったラマザンはニュージーランドに出国し、家族と再会することができた。
2005年2月7日、東京入局管理局はトルコ国籍のクルド人を収容した。彼は、カザンキラン一家と同様、国連難民高等弁務官事務所から難民と認定されているが、東京入国管理局では難民と認定せず強制退去の処分を下した。これに対し、処分の取り消しを求める訴訟を起こし、上告中であったが、仮放免中には月に一回の出頭が義務づけられているため、東京入管に出頭し、そのまま収容された。
また、エルダル・ドーガン一家は1999年に来日し難民認定を求めたが、難民と認定されず強制退去の処分を下された。これに対し、処分の取り消しを求める訴訟を起こしたが、2006年に敗訴した。2007年5月、難民申請が受け入れられ、2007年7月10日、エルダル・ドーガン一家はカナダに出国した。
ETA(エタ)は、バスク語で「バスク祖国と自由」を意味する言葉 Euskadi Ta Askatasuna を略したものであり、バスク地方の分離独立を目指す急進的な民族組織である。
斧にとぐろを巻くヘビがシンボル。バスク語は、言語学的に周辺のインド・ヨーロッパ語族とは独立しており、系統不明とされている。
対抗組織としてGAL(Grupo Antiterrorista de Liberacion―反テロ解放団、右派)。
ETAは、スペインやフランスのバスク人居住地域を一つの独立国家として分離させることを目標としている。 その地域は、スペインのバスク州のビスカヤ、ギプスコア、アラバ、とナバーラ州やフランス南西部のピレネー=アトランティック県に位置するラボールド、ソウレなどが含まれている。
彼らがマルクス主義を掲げているのは、リビアやレバノンの場合と同様、過去にキューバなどの共産主義国家に支援されていたためである。そのメンバーがメキシコやベネズエラに政治亡命したこともある。 また、IRA暫定派などのヨーロッパにおけるテロ組織とも関係しているとされている。
ETAは、フランコ政権によるバスク地方への武力弾圧に対する抵抗運動として1959年に創設され、主にスペインで活動してきた。爆弾や暗殺などのテロを常套手段とし、バスク民族主義に反対する政治家やジャーナリスト、知識人、企業家、軍警察、治安部隊などを標的として襲撃した。1960年代よりおよそ800人を殺害している。
その活動範囲はほとんどスペインのバスク地方、マドリード、バルセロナ、そして観光客の訪れる地中海沿岸に限られる。またテロは起こしていないが、フランス国内でも活動している。
ETAの財源は、誘拐、ゆすり、強盗、武器取引、強制的な税の徴収である。
2001年12月にアメリカと全EU諸国で作られたテロ組織のリストにも名前が挙がっている。
以下にETAが引き起こした、あるいは引き起こしたと疑われていた重要なテロ事件を列挙する。
ETAのメンバーはしばしばフランス南西部、特にフランスのバスク地方やアキテーヌに避難した。 フランス政府は、特にETAのメンバーが政治亡命をしていたフランコの独裁政権時には、このことを黙認してきたが、近年ETAを非常に厳しく取り締まるようになった。 多くのETAメンバーがフランス国内で逮捕され、スペインに引き渡されて裁判を受けている。
1970年代から1980年代にかけて、ETAやその支持者たちは右派のGALやスペイン統一主義者による報復テロの標的となった。
何人かのETAのメンバーはフランコ時代に処刑されている。
ETAの政治部門はバタスナとして知られている。バスクの選挙では10%程の得票を得ている。この政党の扱いについては、政治上非常に大きな論争となった。
スペイン議会は、2002年8月、バタスナ党を非合法化する手続きを開始したが、 それは厳しすぎるとして強い異論が巻き起こった。
バルタサール・ガルソン判事は裁判と並行してバタスナ党の活動の停止を命じ、バタスナ党とETAの関係を調査した。 その本部は警察によって閉鎖させられた。 スペインの最高裁判所は、バタスナ党はETAの一部であるとして、2003年3月18日、最終的にバタスナ党を非合法と宣言した。 バタスナ党は、2003年5月にアメリカ、2003年6月に全EU諸国によって作成されたテロ組織のリストに加えられた。 スペイン議会だけでなくバスク議会の議員も、ETAに襲撃されることを恐れて、護衛を付き添わせざるをえなくなった。
ETAは、フランコ政権によるバスク
SEO
への武力弾圧に対する抵抗運動として、1959年5月31日にバスク国民党から分離した若手の民族主義者たちによって設立された。
1968年、ETAのメンバーであったシャビ・エトセバリエタは、検問で彼の車を止めようとした警察官を銃撃し死亡させた。 彼はその場で他の警官により射殺された。その報復として、警察の要人であり、おそらく拷問の指揮者でもあったメリトン・マンサナスの殺害を計画し、実行した。
ETAのイデオロギーは基本的にアルジェリアの独立運動、反植民地運動に影響を受けていた。
1973年、フランコの継承者であり、スペインの首相であったルイス・カレロ・ブランコの車をマドリードで爆破し殺害した。長期に渡る独裁政治に反対していた多くの人々はこの出来事を歓迎した。
その後、ETAは軍事部門と政治軍事部門に分かれた。
1975年から1978年にかけてのスペインの民主化では、ETAの政治軍事部門は恩赦を受け入れて、バスクの左翼政党の民主化プロセスに加わったが、これに反対する者たちはETAの軍事部門に集まり、スペインに対する闘争を継続した。
1986年から1987年の間に、政府の支援の下で非合法の反ETAテロ組織GALが結成され、ETAのメンバーと疑わしい者や無実の人々を誘拐したり、殺したりした。ETAの支持者は常に治安部隊(CEIAT―対テロ特捜隊)による人権侵害や拷問を非難していたが、スペイン政府がこのような不法な活動に関与したことは一度も証明された事がなかった。
1995年には、マヨルカでのスペイン国王フアン・カルロス1世の暗殺に失敗し、マドリードで当時保守派の指導者だったホセ・マリア・アスナールの暗殺にも失敗した。
ETAとの闘争を続けるスペイン
モバイルSEO
は、テロリストの容疑者はそれらを専門的に扱うマドリードの全国管区裁判所で裁くようにする反テロリスト法を制定した。テロリストの容疑者は、他の容疑者よりも長く身柄を拘束されることとなった。ETAの囚人は、意図的にスペインやフランスの刑務所に分散して収容されたり、遠く離れたカナリア諸島のサルト・デル・ネグロ監獄に入れられたりしている。スペイン政府はこのことを組織の結束を分断するためとして正当化している。
コロンビア政府は、コロンビアに住むアイルランド人やバスク人の中にIRAやETAのメンバーがおり、コロンビア革命軍(FARC)のゲリラにテロの手法を指導しているとして非難している。
ETAは、2004年3月11日の朝、マドリードの地下鉄の3箇所を狙って10の列車を爆破し、200人以上を死傷させた犯人として疑われていた。この事件は、1988年のパンナム航空機爆破事件以来ヨーロッパで起きた最も大きなテロとなるものだが、2007年10月31日スペイン全国管区裁(1審)判決では、この事件とETAとの関連は否定された。
2006年3月22日、ETAは3月24日の11:00(国際標準時)より、無期限停戦の声明を2分間の放送でスペイン全土に発表した。しかし9ヵ月後の12月30日、バラハス空港の爆破事件を起こす。その半年後の2007年6月、停戦破棄声明。理由として「サパテロ首相が停戦に対してメンバーの逮捕・拷問・迫害で応じた」として停戦続行が
横浜 マンション
になった事を挙げている。9月9日に本格攻撃再開を声明し、ドゥランゴでの8月24日の爆弾テロなど4件での犯行を自認した。
2007年12月1日の朝、ETAはフランス領内キャプブルトンでスペインの治安警備隊員2名を銃撃、1名は即死、もう1名も4日後に死亡した。フランス領内で初のETAによる殺人事件。スペイン政府は、事件の計画的テロとしての性格を否定。
斜影はるかな国(逢坂剛 文春文庫 2003年)ISBN 4167520079
スペイン内戦に参加した日本人義勇兵について取材しているうちにETAとGALの暗闘に巻き込まれたジャーナリストと留学生の運命を描く。朝日新聞の連載小説。