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イスラエル、正式名称イスラエル国(メディナット・イスラエル)は、中東・西アジアの国家。現代イスラエル国はヨーロッパにおけるシオニズム運動の結果、主としてユダヤ人によって、紀元前のイスラエル王国にちなんだ「シオンの地」(パレスチナ)に建設された国家(以下、イスラエルと記述)。 首都は西エルサレム(1950年にイスラエルが東西を総称して宣言したものの、国連では認められなかった。各国の公館はテルアビブに集中する)。北はレバノン、東はシリアやヨルダン、南はエジプト、西は地中海に接する。また、パレスチナ自治区とは交錯している。 「イスラエル」の語源は、旧約聖書創世記32章24節〜28節で、天使と格闘したヤコブが神に与えられた名前に由来する。 イスラエルを説明する上で、外すことが出来ないのが、パレスチナの所有に関する問題、いわゆるパレスチナ問題である。 国連によるパレスチナ分割決議 第一次世界大戦でユダヤ軍・アラブ軍は共にイギリス軍の一員としてオスマン帝国と対決し、現在のヨルダンを含む「パレスチナ」はイギリスの委任統治領となった。 現在のパレスチナの地へのユダヤ人帰還運動は長い歴史を持っており、ユダヤ人と共に平和な世俗国家を築こうとするアラブ人も多かった。ユダヤ人はヘブライ語を口語として復活させ、 アラブ人とともに衝突がありながらも、安定した社会を築き上げていた。 しかし、1947年の段階で、ユダヤ人入植者の増大とそれに反発するアラブ民族主義者によるユダヤ人移住・建国反対の運動の結果として、ヨルダンのフセイン国王らの推進していたイフード運動(民族性・宗教性を表に出さない、平和統合国家案)は非現実的な様相を呈し、イギリスは遂に 国際連合にこの問題の仲介を委ねた。 ここで注意しなければならないのが、アラブ人過激派やその指導者の(あるいは双方の)過剰反応、アラブ民族主義・汎アラブ主義との衝突、列強の政策とのリンキング(啓典の民、イェフーディーなど参照)、という側面である。 イスラエルはこの国連決議181(通称パレスチナ分割決議、1947年11月29日採択)に基づき、1948年5月14日に独立宣言し、誕生した「ユダヤ人」主導国家である。この決議は人口の三分の一に満たないユダヤ人に、国土の三分の二以上を与える内容であった。さらに、その領域は第一次中東戦争の結果、国連決議よりも大幅に広いものとなっている。 ユダヤ人国家を建国したものの「そこはシオニストの宣伝していたような無人の土地ではなかった」という主張をする者もいる。「アラブ人(パレスチナ人と同一とみなされることが多い)が住み、アラブ・イスラムを主体とした国家を作ろうとする者もいた」とする者もいる。そもそも、パレスチナ人やアラブ人というのは宗教上の区別に過ぎず、土着のユダヤ人とは人種的に同一といわれている。しかし、ユダヤ人とは事実上ユダヤ教徒を指すために事態がややこしくなった。 ただ、これらの点について「ユダヤ人とアラブ人は長期間にわたって血で血を洗う抗争を繰り広げてきた。従って、譲歩はありえない」というような現在まかり通っている見解は、宗教や歴史・政治に無関心な者による大きな誤りの一つである。歴史的に見ても、イスラエルの地に住まうイスラム教徒・キリスト教徒とユダヤ人は共栄・共存を願ってきた。一言で単純に語ることができないほど長く複雑なバックボーンを持つことは明白である。 アラブ人を主体とする周辺国家はユダヤ人を「アラブの土地」を奪うものと位置づけ、イスラエル独立宣言の当日からイスラエルに対し宣戦布告し、パレスチナのユダヤ人居住地域に攻め込むなどして、「土地の領有を巡る」第一次中東戦争が勃発した(この時点では、国連の分割決議による「イスラエル領」の決議はあったものの、その全域を実効支配していたわけではなかった)。人口の一割を失う激戦でイスラエルは戦争に勝利し、分割決議より多くの領土を獲得した。アラブ諸国は「国連分割案を上回る地域にまで侵攻し停戦後も占領し続けた」と主張した。イスラエル側は第一次中東戦争を独立戦争と呼び、戦争の目的を「アラブ人の過激派の攻撃を防ぎ、ユダヤ人と多民族が安心して暮らせる、ユダヤ人主導の国家を樹立すること」としていたとされる。 イスラエルは一部のアラブ系住民に土地に残るよう勧めたとされ、これが現在の100万人以上のアラブ系イスラエル国民の祖先となっている。しかし、ダビッド・ベングリオンをはじめイスラエル首脳陣側に、アラブ人人口が少なくなったほうがユダヤ国家の建国に有利という考えがあったことは確かである。 戦闘やテロ・扇動の結果、1948年の時点でパレスチナの地に住んでいたアラブ人が大量に周辺地域に移住し、「難民」と化した(パレスチナ難民)とされる。「パレスチナ「難民」」の多くは避難先のアラブ社会には吸収されず、アラブ過激派の扇動や活動(「抵抗運動」)などの結果、アラブ過激派(抵抗組織)の意図した反イスラエルの象徴とする作戦に包含されていたと考える場合もある。 また、逆にイスラム世界に住んでいた多くのユダヤ系住民(セファルディム、ミズラヒム)が土地を追われて難民化し、イスラエルに逃げ込んだ。このとき、イスラエルは世界各地のディアスポラ住民を極力救おうとした(イスラエルの作戦一覧参照)と主張する。それによるとアラブ人とユダヤ教徒の「住民交換」が起きたとする見方をとる。 停戦後、パレスチナにはFX 主義的ゲリラ(「抵抗組織」)が活動し、パレスチナ「解放」や「難民」の「帰還権」を訴えた。戦後50年以上経過しながら各地のアラブ社会に吸収されないパレスチナ難民は、初期の60万から80万人という人数から現在の総数に膨れ上がっている。そのため、パレスチナへの帰還はイスラエル政府からは非現実的と考えられている。 第三次中東戦争以降 エジプトによるチラン海峡封鎖宣言に端を発する第三次中東戦争によって、ヨルダン・エジプトによって占領されていたヨルダン川西岸地区・ガザ地区と、シリアの砲台があったゴラン高原はイスラエルの管理下に入り、ユダヤ教の宗教者はそれまで立ち入ることのできなかったエルサレム旧市街と嘆きの壁・ヘブロン市、ゴラン高原などに押しかけ、アラブ人居住区にあったシナゴーグも再建した。イスラエルのサマリア人はナブルスでの過ぎ越しの祭りを執り行うことができるようになった。スコープス山にあったヘブライ大学の建物も使えるようになった。 イスラエルの主張では、国連決議181を拒否した時点でパレスチナ全土にユダヤ人国家による施政権が認められており、また、占領は平和条約締結まで戦勝国に認められている合法的行為であるとしている。前者の立場に立つ場合、占領には当たらない[1]。 イスラエル政府により電気・水道などのインフラの整備が進み、経済が発展し、急患はイスラエルで高度な治療を受けられるようになった。テロに関与せずに安全と判断されたパレスチナ人(主として、若者ではない人々)はイスラエルで働くことができるようになった。ただし、占領統治行為に伴う、イスラエル治安維持部隊による発砲で犠牲になったパレスチナ人も少なくない。また、一部のパレスチナ住民は産業が形成されず、慢性的失業・貧困状態が続いており、またくりっく365 のイスラエルに対する反発が大きいため、これもテロリズム(「抵抗運動」)の温床・要因の一つになっているといわれる。 パレスチナ問題とは、イスラエルの西岸・ガザなどにおける地位、あるいはイスラエルに敵対する一部アラブ諸国が、その手段としてパレスチナ人を利用している代理戦争だともいわれる。 パレスチナ問題には、書き切れない程の長く複雑な歴史・過程がある。アラブ諸国から見れば、2000年前に住んでいたという理由で勝手に押しかけてきたという主張がなされることもある。一方、ユダヤ人側からはこのような主張は共存への道をも否定しようとするものであるとの主張がなされる。 米国の政権は、政治的立場の維持に対して国内ユダヤ人の貢献が大きいため、イスラエル寄りの政策を続けている。例えば、国際連合安全保障理事会でイスラエルを非難する、あるいは何らかの制約を求める提案が出されると、非常に高い確率で米国が拒否権を発動する。イスラエルは米国の拒否権により国連などの国際的非難から守られていると言える。他方では、中東各国政府が、パレスチナにおける紛争などを利用し、若者を始めとした様々な「不満・怒り」を一点に振り向け、過激派の矛先が自分たちに向かわないようにしてきたためでもある。すなわち、イスラエル批判のストーリーを、政治的問題の駆け引きに、また、経済的問題への不満をかわすことに使っていると言える。中東の若者には貧富の格差による「不公平感」があると言われる。また、経済は好調であっても、人口急増によって雇用が十分でない、などの問題があるとも言われる。 今日に至るまで、パレスチナ問題は解決の目途が立っていない。 ヨルダン川西岸地区・ガザ地区は、現在もイスラエルの占領下にある。なお、2005年にはガザ地区からイスラエル人および治安部隊は撤退したが、イスラエル占領軍はガザに対して攻撃を続けており、ガザ住民に対する攻撃は終わっていない。 1993年以降、パレスチナには自治政府が設置され、自治領域は壁の建設によって徐々に縮小されている。将来の国家像については、いまだイスラエルとの連合国家案、連邦案などもある。